東京都区内にはベーカリー激戦区と呼ばれるような地域もあり、皆それぞれに切磋琢磨し、多種多様なパン文化が生まれている。都内から電車で1時間弱。ベッドタウンとして造成された町の住宅の一室で、静かに産声を上げた「チクテベーカリー」。オーナーの北村千里さんが紆余曲折を経て辿り着いた「パンや」という道。「やり始めたことは続ける。地域の人、働いている人、自分のためにも、できれば一生パンを焼き続けたい」。静かで強い、その情熱の炎は、20年以上が過ぎた今も変わらず、彼女が歩む道を照らし続けている。
撮影・取材・文/外山暁子
何か「ものづくり」がしたかった
清潔感のある白い帽子とリネンのエプロン。揃いのユニフォームに身を包んだ女性たちが働くチクテベーカリーには、どこか修道院を思わせる、静粛な空気が流れていた。オーナーである「チクさん」こと、北村千里さんは細身で、この腕であれほど力強いパンを生み出しているのかと驚くほどだった。
チクテベーカリーが生まれるまでの話を聞いて、また驚いた。運命のパンとの出会い、修業中のあれこれ、現在の店に至るまで…。そのドラマティックな半生を、少しだけ紐解いてみたい。

「何かものづくりがしたい」。
それが学生の頃のチクさんの夢だった。当時は美術方面でと考えていたので、美大で学んでいたのは陶芸。今思えば「土、水、釉薬というシンプルな素材」「こねて形づくる」「焼いて仕上げる」といった陶芸の工程は、パンづくりのそれとよく似ていた。
「当時は就職氷河期だったこともあって、さらに陶芸の分野で就職先があるわけでもなく。映画にも興味があったので映像を学んだ時期もありましたが、どちらも仕事としての手応えはありませんでした。こりゃいかん!って、テレビ番組の美術のディスプレイのアルバイトをやった時に、パンを陳列したんですよ。その時に現場にあったのがカンパーニュ。
それを見た瞬間、なぜか「パンやってみようかな」とふと思ったんです」。
それが運命の出会いだった。
ものづくりがしたい→何か作らなくては→その「何か」とは何か、を自問自答していた時期だったこともあり「切羽詰まっていたからかな」とチクさんは言うが、今現在のチクテベーカリーを見ると、カンパーニュとの出会いは必然だったのだと言わざるをえない。

酵母と粉と塩と水で作ったシンプルなパン。
「これだったら一生やれる!」
当時は、ベーカリーを併設しているカフェでホールスタッフとして働いていたこともあり、ベーカリーの様子を見ては「楽しそうだな」と思うこともあったという。カンパーニュに魅せられた後は、早速系列店のベーカリーで働き始めた。
「パン生地は、発酵したり、オーブンに入れたら、ふわあんって膨らんでくる。焼けてくると工房中がいい香りでいっぱいになっていく。もうそれが楽しくて。すごい!ってとにかく毎日感動してました」。
陶芸では「何を」作っていいかがわからなかった。目的のないオブジェは純粋に作っていて楽しかったけれど「使う」ことを前提とした道具にはあまり興味が持てなかった。
「今だったら、パンに合わせた料理を考えて、じゃあこんなお皿に盛りたいなってなると思うんですが、当時は手を動かして何か仕事をしたい、という漠然としたイメージだったんです」。
ゆえに、それが陶芸である必要性はなかったということなのだろう。
パンは何より、作ったものを食べることができる。
「パンを食べることは好きでしたから。おいしくて、自分も周りも幸せになる。目的がシンプルだったんですよね」。
ただ当時は、イーストを使ってのパン作りで添加物を使う機会も多かったため、毎食毎日食べていくうちに、体調不良を感じる場面も出てきたという。
「好きだから毎日食べちゃうんですが、過剰に摂取していますから当然ですよね。好きなのに、食べたら体が重だるいというか。パンって健康に悪いのか? もっと身体にも美味しいパンってないのかなって考えていました」。
その頃、発酵種を使って、小麦粉と塩と水だけで作ったパンと出会う。「香りと味もおいしく感じて、何より食べた後に体が楽だった。元々小麦のタンパク質の分解があまり得意ではない体質なんだと思います。自家培養発酵種のパンって素材もシンプルだから、誰に食べてもらっても安心して食べてもらえるし、パンの焼ける香りもいい。やっぱりパン屋をやるんだったら、こういうパンがいいな、これだったら一生やれるな、と思ったんです」

チクテベーカリーのパンは全て国産小麦を使用。小麦粉、塩、水だけのシンプルなパンが基本。
働いていた店は退職し、いくつかのベーカリーを経験した後、縁あって鎌倉の自家培養発酵種と国産小麦を使うカフェを併設するパン屋で3年ほどを過ごすことになる。
美大予備校時代の友人と一緒にカフェとベーカリーをやりたいね、と話していたこともあり、理想の形態に近かったこと、それに都心を少し離れた距離感もちょうど良かった。
「理想のパンに出会って、その店で働きたくて、近くのアパートを借りたんですが、結局は人気店ゆえに人が殺到していたので私は入れなくて。超貧乏だったので、お風呂もない昭和のボロアパートに住んでました。冬はすきま風で寒いし、見上げても空が狭くて。元々多摩育ちなので、やはり都会はどこか息苦しく感じていて。鎌倉に行った時に、ひらけた空を見たら、やっぱりこういうところが良いなって」。
チクさんは、それを「逃げ」だと言ったが、決してそうではないと思う。ひと息つけたその場所で、チクさんはやっと少しずつ、「自分のパン」を焼き始める。

北村千里さん。店名のチクテベーカリーは、自身の「ちく」というあだ名と、料理用語で生地に穴を開けたりする「ピケ」をフランス語ではシクテと言うことから、それを合わせて「チクテ」という言葉が生まれた。
アパートの一室で始めたパンづくり
住んでいたアパートの一室で、チクさんはとにかく自分なりのパンづくりを始めてみることにした。お店で働きながら、休みの日を利用してのパンづくり。自分が作るパンってどういうものだろう? パンはたくさん作るから、その都度、カフェのスタッフやお客さんなどに試食として配るようになっていく。それが続いて「買うよ」と言ってくれる人が増え、「〇〇さんが食べたいって言ってたよ」「じゃあ、⚪︎曜日に焼くので届けますね」と、試行錯誤しながら作ったパンを食べてくれる人が少しずつ増えていった。
「当時はイーストのパンも作っていましたし、発酵種のパンも作って、何曜日は何のパン、とか少しずつ決めて焼くようになっていました。アパートの一室で普通のコンベクションのガスオーブンだから、カンパーニュは一回に一個しか焼けないんですよ。古いアパートだったから、好きに使っていいよ、と言ってもらえたのも良かったです。そこで色々と試しながら作ることができました」。
今のように検索すれば情報が出てくる時代とは違い、さらに、発酵種の作り方、となると、書籍で探すことも難しかった。とにかく、自分の手で作り上げていくこと。でもチクさんはその工程を楽しみながら、食べてくれる人たちがいる幸せを噛み締めながらパンを焼く日々だった。
その頃から決めていたのは、国産小麦だけを使うこと。
当時はまだ買える先も種類も少なく、勤めていた店に紹介してもらった農家さんから※農林61号を買って全粒粉のパンを作っていた。その時に起こした種は、現在に至るまで大切に継いでいる、チクテベーカリーの原点とも呼ぶべきものだ。
※農林61号:日本の伝統的な中力小麦の代表品種。昭和30年代から50年代にかけて国内小麦の主食用品種だったが、近年では生産量が減少し「幻の品種」とも言われている。
著名人が紹介してくれたことなども重なり、注文は徐々に増えるようになっていた。町田市に終の住処として両親が新たに建てた実家の9坪を工房として、そこで初めて「チクテベーカリー」という屋号を掲げた。前述の友人は下北沢でカフェを、チクさんは町田で焼いて店舗に卸す、という形態にした。町田は店舗というよりも工房で、基本はカフェや雑貨屋さんへの卸販売と個人のお客様への配送をする。
「始めたら、もうやるぞ!って感じで。目標を決めるまでは動けないけど、決まった途端にもう動き出す性格で。最初は10種類。カンパーニュなど、当時の「ザ・天然酵母」な見た目のパンばかりでしたね。
それに、私は大きく焼くのが好き。そのほうが美味しい気がするし、いっぱい食べれるし」
小さいパンは日が経つと水分が蒸発してしまうが、大きく焼くとその分水分も残っているため、日が経つごとの変化も長く楽しんでもらえる。
さらに、発酵種のパンは、乳酸菌の力でタンパク質を分解してくれるため、消化にも良く体への負担も少ない。乳酸菌の力で添加物を入れなくてもカビにくい、といういいことづくしだった。

「有機ロースト人参とプロシュートのsand」。芽室の「自然菜園ふたば」宇佐美さんの白や紫、黄色人参と、「斎藤農場」斎藤さんの人参、地元の有機農家さん「有機農園けのひ」さんの人参を使用した冬のsand。
ただ、地元の人に受け入れられるまでには少し時間がかかった。
「当時はニュータウンの最終開発地だったので、まだまだ山を切り崩して開発していました。住んでいる人は少なくて、試しにお店も併設してみた、というくらいで。看板が出てるからドアを開けてみたら、ずら〜っと、大きいパンが並んでて。これしかないの?と言われたりもしました。これはまずいなと思って、小さなパンも焼いたりしていました」。
当時は何も発信手段がなく、どうやって知ってもらうかには頭を悩ませていた。新しくできたマンションがあればチラシを作ってポスティングしたり、下北沢のカフェが人気が出てきていたこともあり、一緒にメディアに取り上げてもらうなどしているうちに、カフェに提供していた市販酵母を使用した直火焼きのマフィンが評判になり、「一時はマフィン屋になっちゃうんじゃないかと焦った」ほどだったという。けれど、そうして知ってもらう機会が増えていったことで、卸売の量も増え、1人じゃ手が回らないようになり、3人で製造と販売をするようになっていく。
小麦と向き合う
チクテベーカリーでは、すべてではないが、製粉も自分たちの手で行っている。パンを作る原料となる小麦の畑に出向くようになったのは2015年からのことだ。
「私たちは小麦がないと何もできないんですよね。国産小麦を使ってはいたけれど、農家さんのところに行ったことはなくて、それってどうなんだろうってずっと思っていました。まずはちゃんと「小麦」というものに向き合わなくちゃと思って」。

店内には小麦の穂のディスプレイが
農林61号を作っていた群馬県の農家さんとの別れもきっかけになった。電話でのやり取りは何度もあったが、直接会いに行くことは叶わなかった。
「元気だったのに急死してしまって。生きている間にお会いもしてないし、畑にも行けなかった。国産小麦とか、農家さんが、って口先で言ったって全然ダメじゃんって、すごく後悔したんです」。
製粉までを依頼していたこともあり、弔問の際に遺族の方とこれからのことを相談した。幸い、一緒に畑仕事をしていた方がいたため、今後も引き続き作ってくれるという。ただ、製粉に関しては「ちょっと考えさせて」と言われた。
「倉庫に行ったら、まだ挽いていない麦がたくさんあったんです。やっぱりなんとかしなくちゃと思って、ひとまず、自分で製粉できるような体制を整えよう」。
そんなことが製粉のきっかけとなった。現在は一緒に畑をされていた息子さんが製粉までを担ってくれているが、また不測の事態があった時「自分の手で製粉できる」というのは、小麦を小麦粉にできればパンを作ることができる、ということ。それは、自信にも安心にもつながっている。
雑誌などで、他のベーカリーシェフが小麦畑に行っている記事を見て「行っていいんだ!」と思っていたころ、アグリシステムのことを知る。当時はまだ取引もなかったが、ちょうどアグリシステムが圃場見学を受け入れ始めたころに重なる。
「いろいろな畑を見せてもらって、感じたのは毎日小麦粉を触っていても『小麦』のことも『農家さん』のことも全然知らないってこと。パンを作るって言っても、小麦の背景をもっとちゃんと知らなきゃと思って年1回は通うようになりました」
受け取ったものに対して自分たちがやるべきことは何か。畑の農産物である小麦と、お客さんが食べるパン、その中間に存在するベーカリーの役割、使命について考え、スタッフとシェアする様になった。

2025年7月。近年はベーカリーのシェフたちと一緒に訪れることも多い。前列左端の中川さんの小麦畑で。チクさんは前列左から3人目。右隣は東京代々木上原の「フミグラフィコ」のフミさん。後列左端は銀座フレンチのレストラン「エスキス」のブーランジェ寺西さん、左から3番目が東京笹塚の「ドウイスト」オーナーの陳さん、右端は清澄白河の「チェスト」の西野さん。
「毎年うかがうようになると、昨年は良かった、今年は天候不順で収穫時期が難しかった、など、その年毎の違いや原因が少しずつわかってくるようになったし、それを知ることで、作る側としての心構えもできるというか。それならもうちょっと水分量や温度を調節して作ろうかな、とか。その年毎のハプニングも楽しんで小麦と向き合えたり」
育てる人と食べる人の中間となるパンを「つくる人」。その存在の大切さ、役目を、チクさんはいつも考え続けている。そこまでしなくてもいいのでは、というストイックさはなぜ生まれるのだろうか?
「始めた以上、続けていきたい。最後はまたカンパーニュ1種類だけに戻ったとしても。それでも、続けていくこと。地域のため、はもちろん、自分のためかもしれないですね。これしかないから」
そう言って、チクさんは笑っていた。

開店前からの行列は途絶えることなく続いている。
続けること。
言うのは簡単だが、実現させていくのは相応の覚悟も勇気もいると思う。そこまで言い切れるものに出会えたことは、とても幸福なことなのかもしれない。チクさんの原点となったカンパーニュ。いつまでも噛み締めていたい、太陽をたっぷり浴びた小麦の香りがするパンだ。
CICOUTE BAKERY チクテベーカリー
東京都八王子市南大沢3丁目9−5 コーシャハイム南大沢5号棟 101号室
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